オルタードカーボン [乱読三昧]
翻訳本が出て話題の作品「オルタード・カーボン」を読んだ。
「オルタード」というと、「アルタード・ステーツ」を思い出すが、他にも作品中には他のSFの引用を思わせる「ニヤリ」とさせる種が出てくる。
基本設定はテクノロジーの進歩により「人格」の「死」が無くなってしまった世界での話だ。そこでは、一切の記憶と人格はメモリースタックに格納され、時に複製され、バックアップされ、肉体はデータとなった人格を格納する「スリーブ」でしかない。作品名の「オルタード・カーボン」は、その時々にまとい、脱ぎ捨てる肉体を指している。基本的に世界観そのものを読ませる作品だ。
そのため、前半は多少冗長で、下巻の1/2を過ぎたあたりから、謎解きの駆け込みが始まる。登場人物は名前が長く、さながら、むかしのロシア文学を読んでる気分にもさせられる。
普遍的なテーマでもある。そういえば、このところ、それっぽい作品を何冊か読んだのだった。
鉄腕アトムのリメーク「プルート」
PLUTO 1 (1) 【豪華版】 ビッグコミックススペシャル
- 作者: 浦沢 直樹
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2004/09/30
- メディア: コミック
「ハガレン」もそれ系統だろうか
こうしたテーマに人が感心を持つのは、人自身が自我に抱く幻想と観ずるミステリーゆえだろう。
たぶん、知能や人格は、人工的に構成可能な記憶、判断、価値計量の統合なのだろう。ただし、ここでこうしてみている自我については?これが脳が構成したクオリアなのか?幻は幻を判別できるのか。
さて、あなたの人格をデータとして構成したとき、そのクオリアを観るのは”誰”か?
徹底した客観主義によれば、それは誰でもなく、一切無我なのだろう。そうした人はオルタードカーボンの世界での不死を不死として受け入れられる。だが、私自身は他人の”実在”性には疑問を挟めても、データコピーされた”私”をわたしとして受け入れられるほどの確信はない。
いまだ自我の実在性にぼんやりとした幻想を抱いてしまう。”我思う故に我アリ”というわけだ。ここで"観"ているという意識がそうした理解を妨げているのだ。
いやー、無我を達観したオシャカサマはえらいねぇ。
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