ミリンダ王の問い 東洋文庫版 [乱読三昧]
http://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60002507
副題は「ギリシャとインドの対決」となっているが対決している雰囲気はない。この本自身が仏教の経典であるからしかたないだろう。
ヘロドトスの「歴史」でインドに関する記述を見ると、「黒い精液を出す民族」という記述もあったりで辺境の蛮族扱いだ。しかし、本来、共通の祖先を持つインドアーリア語族なわけで、今日的な東洋対西洋という見方そのものが、当時の観点からはおかしいのかもしれない。実際プラトン、ピタゴラスなどはペルシャの拝火教、インド的転生思想の影響を見て取れる。
ところで当時の仏教思想そのものは、インドの他の流派とも異なり、「個我、すなわち、魂」の存在も否定している。否定ロジックは概ね合理的だ。だが、一方で「転生」は肯定している。
ミリンダ王はそこで、「主体、つまり魂はないのに転生するのはなぜだ」とつっこみを、入れるのだが答えは、主体が存在しない場合でも、因果律の伝播はある。逆に言うと因果律の伝播自身が主体として観察される場合があるが、それは、幻にすぎないというものである。どうも、「無我説」の説明の方に力が入っている。(炎のたとえなど)
おいおい、「ミリンダ王、つっこみが甘いよ」、こっちで死んだ誰かが、全然関係のないどっかで生まれ変わっているという現象自身が観察できないのに、主体の非存在との関連や因果を問うても仕方ないだろう。
ただ、これこそが”古代”ということなのかもしれない。人間の善悪の価値判断とは分離された自然法則を当たり前のものとして受け入れている現代に対して、当時は、主観が客観に当たり前のように影響を与える、そこに因果律の介在があると考えられていたということだろう。
ただ、それから2000年以上の時を経て、現代においても、未だに主観的(善悪、正義)が、客観に影響を及ぼすという観念を人々は漠然と持ち続けているように思える。
「よいことをすればよい結果がある、悪いことをすれば悪い結果がある」
これ、すなわち「正義の存在」に対する思いこみというものは、社会的な規範の基礎として重要な共同幻想の一つなのかもしれない。
誰か 宮部みゆき [乱読三昧]
出だしの設定テーマの追求が浅く作品を書きながら、適当な長さで打ち切ったのではないかという、印象を受けた。ただ、つまらないという訳でもない。
期待が大きすぎたのかもしれない。
航路 (Passage) [乱読三昧]
人は必ず死ぬ。よって、死に対しては、興味を持たざるを得ない。
航路 (Passage)
http://www.catchbon.jp/smg/cb/shop/goods/detail.aspx?goods=012438
臨死体験を主題としたSF。というか、登場している検査装置や、脳内物質のいくつかが架空のものであるが、基本的にSFという感じはしない。感想は、「つり上手」。
パクッと食いつかせた後、引きすぎず、離しすぎず、ぐいぐいと引っ張られて、つられてみたらえさも付いてなかった。
という、筆者の読者を引っ張る筆力に感心させられる作品。
読み終わってみると、ストーリー的には、伏線に沿ってサプライズもあるが、神秘主義に入り込まずギリギリのところでよくまとめている。ただ、つられ続けるのがいやな人は、すこし疲れちゃうかも。
立花隆の 「臨死体験」を思い起こさせる作品であった。
論衡 [乱読三昧]
論衡 王充 著 東洋文庫版
昔の本を読んでいると、時として、その時代背景に対する考慮を欠落することがある。
たとえば、「論語」。孔子の教えが支配的な教学となり、その後の否定を経た現代からみると、そこに内在される「天人相関」的な見方にすら気が付かなくなってしまうのだ。
論衡 が書かれたのは、西暦70年頃であり、当時としては珍しく実証主義的な合理的視点から当時の様々な論述に対する批判を加えた書である。特に、孔子の著述に観られる「天人相関説」、つまり、天、つまり、自然には意志があり、その意図が現象に反映されるという思想、に加えられる論述は、今日的な視点からは指摘するまでもなく当たり前の観点なのだが、当時の視点からは、あえて論述するに値する斬新かつ個性的な指摘であったのであろう。この本を読んで改めて孔子や論語に対する認識を改めた次第である。
ところで日々の日常に天の意志が現れると現代人はさすがに考えないが、それでも、ガイヤ主義的な、意志を持った自然が非日常的なシチュエーションで顕在化する思想を持つ人はいるだろう。
2000年の進歩とはその程度のものだということだ。
グランツーリスモ4 ザ・バイブル THE BIBLE [乱読三昧]
グランツーリスモ4 ザ・バイブル THE BIBLE 税別 2800円
同時発売のゲーム本は内容が薄いことが多いが、この本は買いである。
本の内容も充実しているし付属のDVDの内容も濃い。グランツーリスモの内部で用いられるチューニングパラメーターに絡めて基本的な車の構造を学ぶことが出来るのもイイ。
ヨーロッパや北米の自動車関連の雑誌ではメカ、自動車の構造や基本パラメーターに関してつっこんだ記述がある雑誌も多いのであるが日本の車雑誌は1990年代ごろから
新車スクープ、VIPカー、意味のない改造が主体で包茎手術の広告掲載数が多いのが特徴の若者系
スノッブで大人を気取った外車の写真とファッションが中心のオトナグラビア系
あとは、「自動車工学」などの整備士向けに別れ、技術/構造指向の記事がどんどん消滅していった。
この本では、コースなどの解説や各種データとともに、ゲーム内に自動車の物理シミュレーションモデルを構築しなければならないゲーム制作者が、どのようなモデルの簡略化を行ったかなどを推し量ることの出来る記述などもあり、メカ/仕組み好きにはたまらない一冊となっている。
ついでながら、ポリフォニー・デジタルの山内氏は、ポルシェGT3を所有しているようで、大変うらやましい話である。
毎日かあさんカニ母編 [乱読三昧]
サイバラの毒とともに、ついつい漏れ出てしまう、ゆんぼくん執筆当時の叙情漫画家(昔表現でいえばシラカバ派)としての横顔によって、癒しと毒のコンビネーションを醸し出す秀作である。
特筆すべきは、
http://www.asahi.com/column/aic/Fri/d_love/20041231.html
にも記載されているように
「本屋で探しても見つからない」
ことか。出版社が毎日新聞という特殊性もあり、マンガのコーナーにはおいて無く、「女性」「絵本」「エッセイ」っぽいコーナーに分類されているためであると思われる。わたしも、amazon.co.jpでは見つかるものの書店で見つけるのには随分苦労した。
Sink いがらしみきお [乱読三昧]
http://www.web-sink.com/
いがらしみきお 、生きてたのか!!と感じ始めて早数年。
部屋の掃除をしていたら、ゴミの山の中からSink 第一巻を発見。書店に行ったら第2巻が発売されていたので即購入。
っていうか、時に漫画家は、遅筆過ぎて、以前の展開忘れちゃってることありますよ。1980年代の大友の「アキラ」がそうだったし、白土三平なんかもそうだったな。
ようやく完結した Sink ですが、終わってみれば、フーンです。エバンゲリオンでもそうですが、ナゾの正体ものは、作者自身に終わらせ方の決意が必要ですな。描き始めた頃は、ひきこもりに新規性があったわけですが、四年たった今も不気味な世相なわけで、フィットした無難な終わらせ方でした。
ただ、それより、巻末に書かれていた、いがらしみきお氏自身の近況の方が興味を引きました。竹書房の連載やめて、引きこもって、カネが無くなった頃に書いた「ぼのぼの」がそこそこあたっちゃったはなしとか、脳梗塞や甲状腺ガンにかかっていた話とか、活躍を見なくなったわけがようやくわかったわけです。
氏には苦痛かと思いますが、才能ある人の宿命と割り切ってご回復頂き、今後も毒有る作品を書いて頂きたいと思う次第です。
五輪書 [乱読三昧]
宮本武蔵 著 岩波文庫版
むかーし、むかーし、NHK教育テレビ「バレエ入門」を欠かさず観ていたことがある。毎回、マイムと基本の形を教えてくれるのだが、その個々の基本の形は、三年ぐらい繰り替えしやって初めて身に付くものらしく、
「それでは、このポーズを三年ぐらい練習して下さい」
といって、翌週には違うポーズをやるのだ。いったい視聴者はどうすればいいのかと...
秘伝の巻物とか聖典、四書五経、哲学書とか実際に読んでみるとたいしたことは書いてないことがほとんどだ。この五輪書もそうなのだが、その意味するところは実際に剣術、斬り合いをしなければ合点できない内容なのだろう。ただ、剣術をたしなまない現代人の視点から見ると五輪書を記した宮本武蔵が、殺し合いを生き抜くだけの合理的な人であったことはよく理解できる書である。
たとえば、五輪書によると、武蔵は片手で刀を扱えるようにしておけとしている。その理由は以下の通りだ。
1.狭い部屋の中、林の中、馬に乗ってるとき、片手に刀をもって、もう一つの手で人をかき分け木をなぎ払う時、両手を刀に添えていては不便だ。片手で扱えれば、別の手で対応できる
2.有利な位置取りのために走る時、両手が離れていればより早く走れる
3.両手でなければ力が足りないのなら、その時両手で刀を扱えばよい
彼にとって剣術は”試合”ではなく、生活の様々な場、屋外、林の中で襲ってくる敵から身を守る手段だったわけである。さらに、片手に持った刀で肉を切るときのコツまで書いてある。
奥義とか哲学を期待するとがっかりするが、宮本武蔵にとっての戦いの場を理解するには良書であった。